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横須賀市 横須賀軍港、三崎、海南神社、城ヶ島訪問
2018/6/13 中井町遺族会役員研修会で訪問
戦艦三笠の活躍は司馬遼太郎の「坂の上の雲」に詳述されている。三笠は明治35年英国で建造され、明治36年には我が国連合艦隊旗艦となり、2年後の日本海海戦を戦ったが、帰還直後、佐世保港で火災となり沈没したが、引き上げて大正15年記念艦として復元保存された。
明治38年の日本海海戦では、当時、世界最強といわれたロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに壊滅状態に追い込んだが、その原因は東郷平八郎元帥と著名な参謀、伊予松山出身の秋山実之の作戦の見事さに有る。
しかしそれに加えて、更に当時は日英同盟によりバルチック海から艦隊が、アフリカの喜望峰を回って対馬海峡へ急行到着するまで、沿岸には英国の植民地が多く、寄港する事や石炭、水、食料の補給が充分に出来なかった為、艦隊の持つ性能を充分に発揮出来なかった為に、乗組員の健康状態が非常に悪かった事も原因で有る。
『日本海海戦で勝利した事は、日本が神に守られた不敗の国で有ると言う神話が生まれた原因の一つになり、蒙古襲来の時の台風に救われた事も含めて、日本が大東亜戦争を始める精神論の支柱となった事は、不幸と言わざるを得ない。日露戦争時の乃木希典大将の203高地での作戦不明の猛攻による、日本陸軍軍人の大量戦死は実に悲惨であった。 これは私個人の意見である。』 |
ロシア軍艦の松ノ板の甲板
対馬海峡に於ける日本海海戦で大勝利を収めた日本海軍は、バルチック艦隊の複数の軍艦を捕虜として日本へ曳航してきた。
日本海軍の激しい攻撃によりロシア軍艦の松ノ木製の甲板は大砲の着弾跡や焼け跡が多数残されていた。日本海軍はロシア軍艦を解体し、戦利品としての部品を再利用したが、その松ノ木の甲板の一部が東海道線戸塚駅の近くの料亭の2階の縁側の板として移築されていた。
私は昭和40年代にこの料亭を訪れるたびに、明治37年の戦いの痕跡を自分自身の目と手足の感触で味わった事を懐かしく思い出す。 |

記念艦 三笠の勇姿
全長122m幅23m、乗員859名
主砲30cm砲4門、副砲15cm14門
補助砲8cm20門魚雷発射管4門 |

記念艦 三笠の勇姿
左に艦長東郷平八郎元帥の勇姿銅像 |

横須賀軍港巡り 米軍護衛艦
湾内には海上自衛隊司令部と
アメリカ海軍横須賀基地が有る |

米軍イージス艦 全長270m
高性能レーダーシステムにより
高度な情報処理能力と攻撃力を持つ |

三崎・海南神社拝殿 |

三崎・海南神社拝殿横の神話絵画 |
三浦半島三崎・海南神社参拝
祭神は 藤原資みつ(すけみつ) とその后妃である(みつわたり姫)
房総の海賊を平定したと言われている。
その他 スサノオノミコトや菅原道真も祀られているとの事。
拝殿の周りには古事記における海幸彦の神話の数々が絵画として
沢山表現されていて、興味深く参拝してきた。 |
川崎市 明治大学 平和教育登戸研究所資料館 川崎市多摩区東三田1-1-1明治大学生田キャンパス
足柄上郡遺族会役員研修会で 2016/10/28 訪問
戦時中の 第九陸軍技術研究所として秘密戦(防諜、諜報、謀略、宣伝)を担っていた研究所の跡地の一部を1950年に明治大学が購入し、明治大学生田キャンパスが開設され、その中に明治大学平和教育登戸研究所資料館が保存され、現在に至っている。
第一科 電波兵器、風船爆弾の開発、
第二科 暗殺用毒物、生物兵器、特殊インク、カメラ、時限爆弾、携帯用武器の開発
第三科 中国での偽札製造の研究と製造 |

明治大学平和教育登戸研究所資料館
入り口の標識 |

明治大学平和教育登戸研究所資料館
外観 |

足柄上郡遺族会役員の記念写真
2016/10/28 |
横浜市 神奈川県戦没者慰霊堂 横浜市港南区最戸2丁目19番地1号 明治以降の戦没者、戦災死者を追悼する施設

慰霊堂入口
2009/10/23 |

慰霊堂を望む |

慰霊堂 2009/10/23
中井町合同戦没者慰霊祭開催 |

慰霊堂内部中央祭壇
無宗教 |
横浜市 伊勢山皇大神宮 横浜県立博物館 中華街 2011/6/24中井町遺族会旅行の記録

伊勢山皇大神宮青銅製大鳥居 |

伊勢山皇大神宮上段の
木製大鳥居 |

伊勢山皇大神宮社殿
祭神は天照大神 |
古事記によると天照大神は
日本の国作り、神作りをされた
イザナギの尊の左目から
なりませし神で、高天原を
統治した太陽神の女神 |

蒋公頌徳碑大鳥居のすぐそば
蒋介石総統の顕彰費 |
蒋介石総統は日本の陸軍
振武学校に学んだ。
昭和6〜20年まで日本の軍部とは
不望の干戈を交えたが、
戦後 「以徳報怨」
怨みに報いるに徳を以っての
布告を出し、日本の復興に
多大の貢献をした。
現在台湾とは友好関係にある |

成田山横浜別院 |

明治10年西征陣亡軍人之碑
太政大臣三條実美書
(西南戦争) |

神奈川県立歴史博物館
旧横浜正金銀行本店
明治37年竣工 国指定重要文化財 |

江戸内湾防備の大砲
1854年国産の複製
靖国神社遊就館蔵 |

中華街関帝廟 |

祭神の関羽は三国志の英雄
商売繁盛の神として信仰 |
横浜三渓園 2011/6/24 中井町遺族会で訪問
生糸貿易で財を成した明治の実業家 原 山渓(本名富太郎)の元邸宅を一般公開したもの。
由緒ある建物を移築している。現在国指定重要文化財に多数指定されている
原山渓は明治、大正時代の日本の3茶人の一人で、小田原に別荘のあった鈍翁益田孝(三井物産創業者で美術品収集家、茶人)
矢張り小田原に別荘と茶室の有った電力翁松永安左ヱ門(現小田原市の老欅荘 茶室 耳庵)と深い交流が有った。
小田原市有名人の別荘探訪をご覧ください。 |

大池より鶴翔閣を望む
原山渓の旧宅 |

大池より三重塔を望む |

白雲邸 大正9年建造
原山渓の隠居所 |

臨春閣 紀州初代徳川頼宣の
別荘を移築 |

旧天瑞寺寿塔覆堂
豊臣秀吉が母の長寿を祝って
京都大徳寺に1591年建築 |

臨春閣 伊藤博文が別荘として
使用した部分、狩野派の襖絵有り |

聴秋閣 徳川家光が二条城に建築
春日の局に下賜 1623年建築 |

春草廬(シュンソウロ)三畳台目茶室
織田信長の弟有楽斎の作 |
神奈川県その他
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