パルミラ・ぺトラと死海を巡るシリア・ヨルダン10日間の旅2007/12/12〜12/21
ヨルダン(12/17〜12/20)
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ヨルダンは、国土の面積は日本の4分の1、人口は535万人で、一人当たり面積は日本の約6倍であるが国土の80%を砂漠、土漠、岩山で覆われている。民族構成はアラブ人が98%、パレスチナからの避難民が多い。公用語はアラビア語だが首都や観光地では英語が通じる。宗教はイスラム教スンニ派92%、キリスト教6%。通貨はヨルダンディナールであるが、日本からは米ドルで持ってゆく必要が有る。時期的には、犠牲祭やクリスマスの前で観光的には閑散期であり、気候的には冬であるが、夏の猛暑でも無く、遺跡を歩き回るには、天候に恵まれたこともあり、快適な気温であった。米国と友好関係にある為援助を受けてかなり豊かであり、賃金はシリアの2倍、乗用車もきれいでシリアの田舎から大都市に来た様に感ずる。従ってシリアより明らかに物価は高い。シリアと同じで、矢張り古代ローマの影響の強い遺跡群には感心させられた。車は韓国車が多く、日本車、ドイツ車、イタリア、フランス車など様々で有る。ヨルダンの歴史は簡単に記すと、紀元前1万年にはヨルダン渓谷で人類最古の農業、BC10世紀数々の王国、BC4世紀ナバタイ人がぺトラに都を、その後アレキサンダーの支配の後、セレウコス朝、後ローマ帝国が支配、AD7世紀まで400年間ビザンティン帝国のキリスト教支配、後イスラムのウマイヤ朝、11世紀の末から100年間十字軍の支配下に、16世紀からオスマントルコ帝国に組み込まれた。第一次世界大戦からイギリスの委任統治領、1946年イギリスから独立。 |
2007/12/17 ジェラシュ遺跡観光 アレキサンダーに征服されたBC332年頃から繁栄が始まり、ポンペイウス率いるローマ軍がBC64年吸収しAD60年頃から劇場や神殿が造られ、AD2世紀初めには人口2万5千人と繁栄を極め、現在残る遺跡の多くはこの頃のものである。AD4世紀以降ビザンチン帝国として300年の繁栄を謳歌した。 | |||||||
ハドリアヌス門と戦車競技場スタート地点 245m×52m 15,000人収容 |
ハドリアヌス門 AD129年 ローマ皇帝訪問記念 |
フォーラム入口の南門 |
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卵型フォーラム・アゴラ (広場・市場) |
卵型フォーラム・アゴラ 遠景(劇場上部より) |
南劇場 3000人収容 現在も現役 |
ゼウス神殿 |
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アルテミス神殿柱はゆっくりと揺れている。柱の最下部隙間にスプーンを差し込むとゆっくり上下する。 |
アルテミス神殿への門 市民が黄金の川から行列を作って参拝したとされる門 |
ニンファエウムAD191年 半神半人妖精ニンフに捧げられた神殿 |
列柱通りフォーラムから北門までおよそ600mも並ぶ見事な列柱に感激 |
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2007/12/17 アンマン遺跡観光 ヨルダンの首都 およそ9000年前から栄えた都市。青銅器時代にはすでにアンマン城は城砦化しBC1200年にはラバト・アンモン国の首都として栄えた。アレキサンダー後エジプトのプトレマイオス朝、ローマ時代、ビザンツ時代を経て7世紀にはイスラム化。第二次大戦後パレスチナ人が大量に流入、イラク戦争後50〜80万人のイラク避難民がアンマンに住んでいる。 | |||||||
パレスチナ難民キャンプ アンマン郊外 |
ローマ劇場AD138〜161 33列 6000人収容 |
ローマ皇帝アントニウス・ピウス 建設 ヨルダン最大 |
ローマ劇場より 丘の上アンマン城を望む |
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ヘラクレス神殿アンマン城 マルクス・アウレリウス帝建設 |
ヘラクレスの左手 ヨルダン考古学博物館 |
死海文書 羊の皮の実物 銅版はそれを写したもの |
死海文書 ヨルダン川西岸要塞都市クムランの11箇所の洞窟から、1947〜1956年に発見された。BC2世紀からAD1世紀に羊の皮に書かれた850巻のユダヤ教聖書(旧約聖書)の写本。クムランは歴史的にはユダヤにあたる。 |
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2007/12/18 世界遺産 ぺトラ遺跡観光 2000年以上も前からアラビア半島からやってきた遊牧民のナバタイ人やべドウィンによって栄えた中継都市。隊商にそのルートを通行させることで栄えた。遺跡に入ると岩をくりぬいて作った多くの建物群に圧倒される。BC6世紀からAD2世紀に繁栄した町の遺跡。AD363年、551年の大地震で町は崩壊した。 | |||||||
遺跡への通路 シク 岩の高さ60〜80m 延々2Km、難攻不落 |
エル・ハズネ 幅30m高さ43m BC1〜AD2世紀 |
エル・ハズネ 内から眺望 崖を削り彫りぬいた 神殿風の霊廟 映画インディージョ-ンズ 最後の聖戦の舞台 |
きれいな砂絵 ヨルダンみやげ物代表 この大きさだと 多分売価25$ |
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ローマ円形劇場 AD2〜3世紀 6000人収容 岩をくり抜き構造世界唯一で世界最大 |
非常にきれいな住居の例 海底から隆起した岩山 |
柱廊通り(幅6m) 周囲の遺跡は551年の地震で 殆んど崩壊 |
凱旋門 古代ローマの遺跡で保存状態が非常に良いとされる |
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2007/12/19 マダバ遺跡観光 アンマンからアカバに至るキングスハイウエイ(王の道)最初の大きな町。マダバの西にあるネボ山はモーゼ終焉の地であり、ここからイルラエルの民はヨシュアに率いられてヨルダン川を渡った。マダバの周辺は洗者ヨハネが活動をした場所で、イエスもここのヨルダン川で洗礼を受けたとされる。そのヨハネが首をはねられたといわれるムカウィルの丘などキリスト教に関する場所も多い。 | |||||||
ペトラ遺跡遠望 翌日早朝 住民は遺跡内から移住し遺跡内の観光で生計 |
ネボ山の教会 頂上(海抜806m) 但し死海は1216m下方に見える |
モーゼの泉 遠望 大木の下が泉 モーゼが杖で付いたら泉が湧き出てきた |
パレスチナモザイク地図 6世紀 6×26m世界最大 死海にヨルダン川、魚が上流へ逃げる姿も |
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モーゼ記念モニュメント ネボ山入り口 |
モーゼ記念モニュメント ネボ山入り口 |
モーゼ記念十字架 キリストの磔刑を象徴 |
聖ジョージ教会外観 パレスチナモザイク地図有名 |
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3000年前にモーゼが眺めたと同じ眺望 旧約聖書申命記第34章 左側が死海、右側がヨルダン川、中央向こうがエリコ(英語読みジェリコ)、そしてカナンの地 ネボ山はモーゼ終焉の地として有名である。旧約聖書に思いを馳せる。 |
モーゼはモアブの地からネボ山に登り、ここからカナン(パレスチナ)の地を指して、「あれが約束の地だ」とヘブライ人(イスラエルの民)にパレスチナに向かうよう促し、自身は山上から見守った。旧約聖書申命記第34章。モーゼの後継者は7つのラッパを吹くならしてジェリコを攻め先住民族の老若男女から家畜までを全て殺戮して自分達の国を作った「ヨシュア」である。一神教の最高神「主」の意志に沿っている。旧約聖書ヨシュア記第6章。 | ||||||
旧約聖書 申命記第34章 主はモーゼに言われた「私がアブラハム、イサク、ヤコブに、これをあなたの子孫に与えると言って誓った地はこれである。私はあなたの目にこれを見せるが、あなたはそこへ渡って行くことは出来無い。」こうして主のしもべ モーゼは主の言葉のとおりにモアブの地で死んだ。モーゼは死んだ時120歳であったが目はかすまず、気力は衰えていなかった。 | |||||||
2007/12/19〜20 死海浮遊体験 地球上で最も低い海抜マイナス410mに有る死海は文字通り生物が棲めない湖であり、塩分濃度は通常の海水が2.9%であるのに対し33%も有り、勝手に体が浮いてしまい、眼に入ると激痛が襲う為泳いでいる人は居ない。上向きになって静かに浮いているだけである。起き上がろうとしても足が浮いてしまい簡単には立上がれない。
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死海海岸の石の塩 |
我が 浮遊初体験 |
死海の落日イスラエルへ沈む |
ホテルのプール,死海夕日 |
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広いホテルとブーゲンビレア ホテルからビーチまで 徒歩で10分も有る 広大な占有地 |
![]() ベリーダンス嬢 最終日 |
憧れのイスラエルが 死海の向こうに見えた 最終日の朝日に輝く |
2000〜3000年前の 旧約聖書や新約聖書に思いを馳せ、歴史を充分噛みしめる事の出来る、楽しい幸せな旅であった。 次回は死海の向こう側イスラエルを目指す。 |